庚申塔豆知識
流山市立博物館に立ち寄った際に購入した「流山庚申塔探訪」(編集・発行:流山市教育委員会 H19/3/25発行 320P)にも庚申塔に関して解りやすい解説が載っています。
以下紹介しますので、庚申塔豆知識としてお読み下さい。

本ページ文の出所先「流山庚申塔探訪」の表紙
庚申信仰とは
 庚申信仰とは流山市内でよく見加ける庚申塔、この庚申塔の「庚申」とは十干十二支の組合せからできた語句です。
十干は甲・乙・内・丁・戊・已・庚・辛・壬・葵の十の漢字で、十二支と組み合わせると、甲子から始まって癸亥に終わる六十通りになり、年や日など用いられています。
つまり年では六十年に一度ですから、年齢で一巡すると還暦を迎えるというのです。
日でも六十日ごとに同じ組み合わせの日が巡ってくるので、庚申の日は六十日に一度、一年に約六回あります。

 この庚申の日の夜、人が眠っている間に三戸(さんし)という虫が天に昇って天帝に人の犯した過失を告げるので、人間は早死にするという、いわゆる三戸の説が中国の道教で古くから言われてきました。
そのため人開か長生きを願うなら三戸に昇天の機会を与えないように、庚申の夜は眠らないでいようというのが、守庚申という庚申の日の行事てす。そして守庚申を七回続ければ、三戸は滅するといいます。
目本では平安時代前期、九世紀の初め頃から宮中や貴族の間で行われ、庚申の夜に集まって歌合わせ碁・双六などをして楽しく過ごしていたようです。

 それが室町時代に民間ても行われるようになります。民間に広まったのは仏家の指導によるといわれ、行事の内容も宗教的な色彩の濃いものになっていきました。
また仏教ばかりでなく神道や、日待・月待などの民間信仰も庚申信仰に影響を与えいます。

 この庚申信仰の仲間(庚申講)が一堂に会して行う行事を、庚申待といいます。仏様などを拝んで経文を唱えた後、雑談をしながら飲食をして、夜を明かしたのです。

 そして庚中講により室町時代には板碑が、江戸時代以降は庚申塔が造られるようになったのです。おそらく初めて庚中講を結んだ時とか、一定の回数や期間の庚申待を無事終了した時などに、それらを記念して建てたのでしょう。

庚申板碑
 板碑(いたひ)は、主に鎌倉時代から室町時代に各地で建てられた供養塔です。
特に関東の武蔵周辺では、秩父産の緑泥片岩(秩父青石)を板状に剥がしで用いているので、板石塔婆ともいいます。

板碑(武蔵型)の形状は、頭部が三角に尖った平板で、上部に横二本の切込み(二条線)があり、塔身には仏像かその種子、真言や造塔目的・紀年・供養者銘が刻まれ、天蓋や三具足などの装飾物を伴うこともあります。造立者は武士と仏家などで、室町時代になると庶民にまで及ぶようになりました。

また念仏や月待・庚申待の結衆が建てた板碑も室町時代に現れます。「庚申待供養」・「庚申結衆」などと刻まれた板碑を庚申板碑といい、主尊には、不動・弥陀や山王二十一社本地仏などが刻まれています。

 滋賀県大津市坂本にある日吉大社は山王権現とも呼ばれ、古い山岳信仰に源を発し、最澄が天台宗の護法神として建立した神社で、神仏習合の形をとって発展しました。
日吉大社には七七社・中七社・下七拾の二十一社があり、その本地仏が板碑に彫られているのが山王二十一仏板碑です。

この山王信仰と庚申信仰は、山王の猿と庚申の申から結び付いたのではないかといわれています。
 流山市内では武蔵型板碑が三百点近く見つかっていますが、(以下省略)

(注)当サイトでは、庚申塔の掲載を主とし、板碑は掲載していません。
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