庚申塔とは
庚申塔とは何か」を知るには、「備後(びんご)の丸彫庚申塔」の案内板を読むと大体のことは解るかとおもうので、同案内板全文を載せる。更に詳しく知りたい方は、流山教育委員会が発行した「流山庚申塔探訪」をお読みになるとよいでしょう。
 備後の丸彫庚申塔の説明 (H19.10.18)

備後(びんご)の丸彫庚申塔(まるぼりこうしんとう)
庚申塔(こうしんとう)は、庚申信仰を背景として造立された石塔のことを言います。

庚申信仰は、奈良時代に中国の道教の三戸(さんし)の説が日本に伝わったことから始まりました。
三戸の説とは、十干十二支(じっかんじゅうにし)でいう庚申(かのえさる)の日、人が寝ている間に、人間の体内に住む三戸の虫が体から抜け出して天帝にその人の罪を告げ、早死にさせるというものです。

三戸の虫は人が起きている間は対外に出ることができないため、人は庚申の日には徹夜をするようになり、講(庚申様をお祀(まつ)りする集団)などを作って行事をおこなうようになりました。庚申塔は、こうした行事などを記念として室町時代頃から盛んに造られました。

この丸彫庚申塔は、享保十三年(一七二八)、備後香取神社の近 くの辻(村の境)に備後村の人々の手によって建てられたものです。庚申塔は 村境に祀られ、悪病を防ぐ御利益があります。

丸彫りされた青面金剛(しょうめんこんごう)は、六臂(ろっぴ)で剣(けん)、戟(げき)、宝輪(ほうりん)、弓、矢、女人像を持ち、日月、雲、邪気(じゃき)、鶏、三猿が彫 り込まれています。少々あどけなさが残る顔にふっくらとした腕をしており、 青面金剛の持つ恐ろしいイメージはありません。

市内でも江戸時代を通じて二百数十基余りの庚申塔が建てられましたが、このように丸彫りのものは全 国的にも非常に少ない貴重なものです。

昭和六十一年 市指定有形文化財
春日部市教育委員会 春日部市教育委員会
 備後丸彫庚申塔
備後丸彫り庚申塔に関するデータ等は → こちら 
ご参考
【十干十二支】(じっかんじゅうにし)
十干は甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)をいい、十二支は子(し)(ね)、丑(ちゅう)(うし)、寅(いん)(とら)、卯(ぼう)(う)、辰(しん)(たつ)、巳(し)(み)、午(ご)(うま)、未(び)(ひつじ)、申(しん)(さる)、酉(ゆう)(とり)、戌(じゅつ)(いぬ)、亥(がい)(い)をいう。
この十干と十二支を組み合わせて暦日(れきじつ)を数えるのであるが、かりに甲子(きのえね)の年から始めると10と12の最小公倍数が60なので、61年目にふたたび甲子となる。それで数え年61歳となると還暦(かんれき)の祝いをする風習が始まった。これに陰陽五行説が結び付き、十干を陽干すなわち兄(え)〈甲丙戊庚壬〉と陰干すなわち弟(と)〈乙丁己辛癸〉とに分け、これに五行すなわち木、火、土、金、水を配して、きのえ(甲)、きのと(乙)、ひのえ(丙)、ひのと(丁)、つちのえ(戊)、つちのと(己)、かのえ(庚)、かのと(辛)、みずのえ(壬)、みずのと(癸)と称している。

(Yahoo!百科事典)
【天帝】(てん‐てい)
古代中国の思想で、天地・万物を支配する神。造物主。
( 大辞泉)
【室町時代】
広くは1336年(延元1・建武3)足利尊氏(あしかがたかうじ)が「建武式目(けんむしきもく)」を定め幕府を開いたときから、1573年(天正1)将軍足利義昭(よしあき)が織田信長によって追放されたときまでをさす。
(Yahoo!百科事典

【江戸時代】
厳密には、江戸に幕府が開かれた1603年3月24日(慶長8年2月12日=旧暦)から、1869年4月5日(明治2年2月24日=旧暦)事実上の東京遷都が行われた日までの266年間をさすと考えられるが、一般には1600年の関ヶ原の戦い以降、1867年(慶応3)の大政奉還に至る間の、将軍を君主とする幕藩制国家の時代をさしている。
(Yahoo!百科事典)




 




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